誰も止めないので書けるだけ書く

読みやすくするように頑張ります

私の好きなゲームについて

(適当な時候の挨拶を入れてください)

Ashrmです。

 

ブログって本題に入る前に無関係な前置きができるんでしたね。タイトル変えてみたんですよ。検索画面にこういうタイトルが出てきたらちょっと不快になるけどインパクトがあって面白いと思います。これ、今の社会による人間の扱いに対して私が抱いている(ひどくゆがんだ)印象なんですが、どこまで共感されるのでしょうか…

 

 さて、とうとう"Twitterに書ききれない思想の垂れ流し"の時間がやってまいりました。こういうのを書くときはTwitterでもブログでも、可能な限り論理的な体裁なり形式なりを整えて書いているつもりですが、大概不快な体験に対し感情的になりながら書いています。本来怒りや悲しみを前面に出していってよいし、一般的にそのほうが共感されやすいのでしょうが、私にはそれが非常に難しいのです。感情を前面に出すことで、論理的な隙が多くなってしまう、というのが、どうにも嫌で。

それで感情に訴える表現を生まれてこの方ほとんど習得できませんでした。こうした態度のせいで、不快な体験に対する適切な反応に時間がかかってしょうがないです。適切な反応を思いついた時には大概文脈は全く違うところに飛んでいるので、毎度毎度こういうところにでも書くしかなくなってしまいます。

そういえば小学校時代の友人も、確か感情的になると哲学的な物言いをする性格の人間でした。彼も感情を発散させる方法に大変暗く、こうした言明を生産するのがやっとだったのだと思いますが、はたから見ているとその様子は大変嫌味たらしく陰湿だったと思います。

 

前置き考えるのに1時間くらいかかって意欲がそがれつつあるのでいい加減本題に入ります。

私は自分で自分のことを「ゲーム好き」だと認識しています。半分内輪のゲーマーのコミュニティに居させてもらえているのですが、どうにも合う話が少ない。もちろんやっているゲームが違うからなのですが、やっているゲームの種類が私だけ少なかったりする。

そのコミュニティの中にグランツーリスモ信者の方がいらっしゃって、PS5に新作が出ることを楽しみになさっていたようなのですが、リッジレーサーに対するグランツーリスモの全面的な優位性をしきりに、感情的に主張されたことに対して、私が大変不快に思った、というのがこの記事を書いている直接の原因です。そこから話を始めようと思います。

や、何も私はグランツーリスモファンに対して喧嘩を売ろうとか対立煽ろうとかそういうつもりで書いているのではありません。こういう議論で「どちらかの側についてもう一方を敵に回す」のは私が全力で避けたい行動の一つです(それはそれでどうなんだ?)。

ただ、現状を見るのであれば、明らかにグランツーリスモリッジレーサーに対して優位に立っているのは事実です。リッジレーサーのほうは遥か昔の2011年にPSVitaのローンチソフトとしてリリースされたものが相当ぶったたかれたのを最後に、新作の気配が全くありません。一方グランツーリスモPS4に至るまでいろいろありながらも順調に新作を出し続け、来るPS5にも新作が出る予定です。もはやリッジレーサーグランツーリスモの相手になっていません。

よく知られている通り、グランツーリスモシリーズの魅力はとにかくリアルであることです。実車と実際のコースと物理シミュレーションを取り入れ、最近はVRの力も取り入れて、レース体験を演出してくれます。レースゲームなどに関しては、リアルであることの価値に対し疑問を持つ人間はいないはずです。

そうなのでしょうか。私はPSPグランツーリスモなどをプレイしたことがありますが、飽きるより先にグランツーリスモの挙動に馴染むことができませんでした。その場では「運転免許を持っておらず、実際の車を運転したことがないからこの挙動に納得がいっていないんだ」と自分を納得させましたが、「それってリアルな挙動に適合できなかったってことですよね?それってこの世界に適合していないってことなんじゃないんですか?(過度の一般化)」がどうしてもついて回ります。

しかし、かつての初代PSの時代においては、確かにリッジレーサーは大人気コンテンツでした。挙動は豪快だし、すべて架空の車、コースでしたが、独自の世界観があり、大きな支持を集めていました。確かにグランツーリスモの向こうを張っていたのです。

Vita版リッジレーサーバンナムがやらかしたことは別にして、リッジレーサーグランツーリスモを決定的に分けた要因の一つは時代だと思っています。かつて、3Dポリゴンを用いたゲームには独特の雰囲気がありました(今となっては、当時のグラフィックを「見るに堪えない」という人もいるようですが)。しかし、技術の進歩により、よりリアルな表現が可能になり、リアルな挙動にしないことの不合理性が増してきたのです。その結果、リアルでシビアなレースゲームが幅を利かせるようになりました。今となっては、レーシングゲームといえば(マリオカートなどを除けば)シミュレーターか半分くらいRPG化したオープンワールドレースゲームかといったところです。

 本当はここで、いろいろと話を膨らませた末、「カジュアルとハードコアの中間のゲームは、現代において存在しにくいのだが、私にはそれこそが必要なのだ」とか「音ゲーはジャンルの本質的にカジュアルとハードコアの中間に位置している」とか「音ゲーやっている人でほとんど音ゲーしかやってなくて作品性の強いゲームやってない私って…」とか書くつもりだったのですが、確かに時代の進行に伴って一部のゲームジャンルがあまりにもたこつぼ化(またはインフレ)されてしまっていて気軽さや優しさが失われてきているのは本当な気がしますが、この話題に関する先行する記述を探してみると、そもそも「カジュアル」も「ハードコア」も曖昧な言葉で議論を進めにくく、問題の本質には迫れないということがはっきりしてきたので、論点を探し直さざるを得なくなりました。そこで、私の好きなゲーム、ゲームとの向き合い方について掘り下げるところから話を再開しようと思います。

私がハマったゲームをいくつか列挙してみましょう。

音ゲー

 ・I.QなどのPS1のアクションパズルゲーム

Rez

・鈴木爆発

・DEPTH(音楽、雰囲気)

・D3Pの地球防衛軍シリーズ(一人プレイ)

・初代アーマードコア(対戦はしない)

リッジレーサー(R4から入った)

弾幕シューティング系

Wipeoutシリーズ

バーンアウトシリーズ

パワプロ(マイライフ中心)

まあ一人で黙々と進めるゲームばかり並べることになりました。また、ほかの、たとえば高校の同期はガンダムEXVSの話、東方深秘録、またはスマブラなどの話をよくしていたのですが、全くわからないままただそばで聞いてばかりでした。それで、たまにしゃべれる話題になったとたんに饒舌になるという…1割の話をするために残り9割の話を耐え忍ぶという、およそ健全ではない付き合いをしておりました。

このような結果になったのは、人間対人間で駆け引きを楽しむゲームが全くできないからです。東方深秘録などの場合、駆け引きの問題になるまでに基本的なコンボやガードなどの操作を覚えなければならないという段階はありますが(私は適切なガードすらできなかった)。そんなに展開の早くないゲームでも将棋や囲碁などいろいろありますが、大概相手の取りたい行動について全く考えることができず、相手の取ってほしい行動に基づいた立ち回りしかできなかったのを覚えております。私自身はこの能力のなさが社会生活を送るうえでかなり致命的な影響を及ぼすと信じてやみません。友人にこのことを話すと「単に興味がなくてやっていないだけで、練習をすればある程度できるようになるのでは」と言われましたが、たかが知れていると思います。そもそもある程度の社会性がなければそのようなゲームに手出ししないはずです。

 

そして、そのような能力のなさの自覚があってこそ、そのようなゲームを楽しんでいる人々を見ていると羨ましくなります。私だってゲーム中に「突っ込んできたのはお前なんだぞバーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーカ」とか叫びたいんです。ゲーマーたるもの動物的な秩序に従い息をするように罵詈雑言を飛ばすべきです。しかし、そもそもそれが許されるような環境で育っていなかったし、自分を抑制したほうが面倒ごとが少ないという考え方に慣れてしまった。その結果、感情の発露でさえこのような書き方になってしまいました。

じゃグランツーリスモの話はなんだったのかなんですが。いかに一人でも楽しめるレーシングゲームといっても、グランツーリスモの挙動に慣れなかったことは、「コミュニティから拒絶された」に等しい心の傷を負わせたことは間違いないんです。もちろん運転は完全に個人の技術なので、努力次第でどうにでもなりそうで(つまり努力が足りないということになるのがまたきつい)、今となってはWipeout Omega Collectionをトロコンしている私としては、ライセンス全部ゴールド取らないうちはお話にならないと思ってしまうところがあります。で、GT3の最初から5番目くらいの課題で挫折してしまい、以後グランツーリスモとそれを取り巻くコミュニティに対してコンプレックスを背負ってしまったのです。

この記事では、基本的に私がコンプレックスを抱きやすいせいで、不快になりやすいということを確認しただけのようです。ゲーム業界になんとなく閉塞感が漂っている感じとか、そんな大きなことを書く資格は私にはなさそうだし、少なくとも現状楽しく遊べるゲームは多数あるので、あまり出過ぎたことは言わないことにします。