誰も止めないので書けるだけ書く

読みやすくするように頑張ります

過ぎ去った時代と「一般教養」と中学生の無邪気

どうもこんにちは。この夏はブログがはかどります。Ashrmです。

 

私は本が読めません。具体的には漫画や小説を読む気になれません。ラノベすら読めません。RPGやノベルゲームもできません。私はこれを「物語拒否体質」と呼んでいます。

小学生のころから図書室の授業の時間は延々と暇をつぶしたり、なんとか読めそうな無感情な解説書を読んで過ごしていました。小説を読むのは親などから強制されたときだけでした。父親からは「自分が生きられる時間には限りがあるから、本を読んで経験を積むのだ」と何度か言われたことがありますが、そう言われるとなんだか卑しい目的で本を読んでいる感じがして気に入りませんでした。

 

 

私がいまいちオタクと名乗れない理由はそこにあります。オタクは博識で、コンテンツ収集を貪欲に、熱意をもって行い、常に自分をアップデートしています。これは過度な持ち上げかもしれませんが、「物語拒否体質」や、懐事情、実家暮らしなどのせいで、そもそもコンテンツ収集目的で自分の金をある程度以上使うことがすでに重大インシデントになってしまっている私にはそう見えます。

 

しかし、一切読んでいないわけではありません。物語そのものが「くだらない」とかそういうことではありません。物語そのものにはかなり飢えています。最近ではワザップジョルノなどである程度興味をもってジョジョの奇妙な冒険(アニメ)を見るようなことをしていました。そして、私のプレイしているゲームの中にわずかに存在する物語要素に対して、私はしばしば大きな関心を寄せることがあります。また、Twitterでたまに流れてくる、激しい感情を呼び起こす物語のごくわずかな断片を見ると、ちょっとした幸福を感じたりします。

 

そして、私は偶然に、事故的に、たとえば2000年前後の、もしかしたら時代にとり残されているような(と書くと、当時からその作品を好きで居続けてくれている方々から殺されそうですが)物語的な作品の情報を得ると、 少なくともその日は寂しさのあまり何も手につかなくなります。例えば、有限会社サイレンスの諸作について知ったとき、それからDigital: A Love Story をプレイしたときにそうなりました。尤もこれは2010年の作品なのですが。

 

「物語拒否体質」などのせいで、いわゆる「一般教養」と呼ばれる類の名作(界隈によって該当する作品が異なりそうではあるが)を全く履修できておりません。そもそも「一般教養」として「履修」するなどと言っている時点で興味がなさそうに聞こえる(大学では興味のある科目を履修するのでなくて?)。作品性の強いゲームや作品にまともに触れるのが怖いのですが、この「怖い」という感情を持つことが何らかの失敗を意味しているとしか思えません。少なくとも、ほかの人間より人格が幼いと感じてしまうのはここらへんに原因があるような気がします。

 

作品性の強いゲーム、または漫画などの作品が「怖い」 のはなぜなのでしょう。

よい作品というものは、プレイした後、または読後に大きな影響を及ぼすものです。ひょっとしたらその後の人生にわたって大きな影響を及ぼし続けることだってあります。そしてそれが作者やゲーム制作者にとっては、大きな喜びになっています。ただ暇つぶしとして快く通過されることは、場合によっては望まれていません。確かに本を読んだりゲーム作品に触れることによって、「経験を積んで」いるのです。

 

私の恐怖は、実はその種の作品の摂取によって自分が不可逆的に変質してしまうことに対する恐怖であるというのがここ2ヶ月くらいの私の考えです。それはある意味で自分の破壊であり、自分をしばらく不安定な状況に置くことなのです。本来的にはすごくワクワクするはずの体験なのですが、積極的に受け入れることに抵抗感を持ってしまっているところがあるようです。

きっと本当は、もっと良いものを取り入れて、どんどん自分をブレさせていくべきなのでしょう。しかし、自分の中で、それは「すべきこと」であって「したいこと」ではないのかもしれません。 それでも、良い作品をどんどん摂取しているオタクの方々をすごく羨ましく思います。

もちろん、これは多くある理由のうちの一つに過ぎないかもしれません。無産オタクとしての嫉妬からまっすぐ作品を見られないということもあるかもしれないし、逆張ろうとしているのかもしれないし、単に興味がないだけなのかもしれないし、怠惰なだけなのかもしれませんが(それとも、変化を嫌うことが怠惰なのか)。

 

そんな私にも、こんな時期がありました。小学5-6年くらいのときに東方をニコニコ動画(原宿)で知ったところから(例にもれずMADからです)私の人生は狂っていくわけですが、このころは東方の世界観、キャラクターにどんどん引き込まれ、積極的に吸収していったことを覚えています。特に八雲紫さんが好き。それは、ついに私を秋葉原に憧れさせ、そして中学3年生の時、実際に向かわせることになりました(憧れそのものは、もしかしたらいつかのACUOのCMを見ていてすでに存在していたのかも)。東方の原作を5枚買って帰りました。さらに、コミケにも参加しました。壁サークルをわざと外していたりしましたが。このころは、自分が変化することへの恐怖よりも好奇心(あるいは親からの束縛を逃れて行動することの快感)のほうが圧倒的に勝っていたのです。

 

しかし、高校生になるとその行動力はなくなってしまいました。コミケの幻想が実際に参加することで霧消してしまったこともあるのでしょうが、中学生のころの好奇心が弱まってきて、未熟なくせに硬い人間になってしまったということなんだと思うんです。

 

やはり「一般教養」の履修は中学時代に行うのが一番だと思います。しかし、中学生でそれができる環境は(当然のことながら)非常に、非常に限られています。少なくとも私はそれができる環境を、「特定の中高一貫男子校」以外知りません。私自身は、「特定の中高一貫男子校」の一つに高校から在籍していたのですが、彼らの「中学時代から蓄積されてきたもの」を前に、文化水準の違いを意識せざるを得ませんでした。中高一貫校であればこそ、多感でどんどん吸収したがる中学生に、(今となっては「かつて存在した」、と修飾されてしまうかもしれないけど)「一般教養」について教えてくれるわる~い先輩がきっといたはずなのです。やはり教えてもらわないと知れないことってたくさんあると思うんです。中学時代、私はせっかく東方に興味があったのに、自称進学校の中学に入学してしまったせいでそのような機会に全く恵まれなかったのです。あの2000年代の文化の残り香がまだ残存していた2010年代前半に中学時代を過ごしていたというのに!

 

で、今の私は何がしたいのか。今は実家暮らしで自分の部屋もないのでかなり無理みが深いですが、一人暮らしができるようになったら、(かなり偏った種類ではあるけど)(特に「あの頃」の)物語に本格的に触れられる環境に自分を置きたいと思っているし、そのためにはよいオタクの先輩を持つことが必要不可欠だと思います。そうして、中学時代の好奇心を思い出して、泥沼の「青春時代」 を今度こそ送っていきたいのです。ちょっと怖いけど…