誰も止めないので書けるだけ書く

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なぜ私の「論理」が使い物にならないのか

おはようございます。Ashrmです。

 

発狂BMSを始めました。昨今の情勢で、通学にかかる時間がまるまるなくなったおかげで、4月からBMSの複数の難易度表の譜面および本体の収集を始め、これを5月中旬にほぼ完了し(未だに間違った本体に譜面が入っていたり、たまに無音プレイになる譜面があったりはするが)、そこから第2通常難易度表を大体埋め、Satellite難易度表に手を出し、星の器EASYできたしリコメンドの数値が★1.78くらいまできたしこれはもう始めたといっても構わないと思います。まあまだGENOCIDE十段も発狂初段も受かってないんですが

 

さて、この記事はTwitterで断片的な気づきだけ書いても分かりにくい内容を、伝えるためにまとめようとしたものです。例によって、気づきや問題意識のきっかけは日常の不快な経験です。しかし、この考察と呼ぶにはあまりにも個人的な何かは、その議論の過程で仮想敵が何度か代替わりしています。これは、全体的には会話における「論理」との付き合い方に関する何かなんですが、基本的に私がコミュニケーション能力の圧倒的な欠如を感じて泣いているものだと思うと間違いないでしょう。

 

この文章や私のほかの文章を読んだ人はすでにそう感じているかもしれませんが、私は長い文章を書くのが下手らしいです。私自身はそのようにあまり考えていなかったのですが、ほかの方々の書いた文章と比較すると、構成はところどころほつれていて、まとまっておらず、細かい言葉づかいも口先だけうまいこと言っているようでいて実は大したことを言っていないというのが見え見えなところがある、幼い文章になっているという印象がぬぐえないようです。私の文章の書き方を振り返ってみると、私は文章全体の構成を考えるより先に、自分がものを考えた順にそのまま書いてしまっているところにその原因の一つがあるようです。本来、私の思考回路を追体験させようとするというのは、非効率だし、「お前なんでこの段階でそれに思い至らないんだよ」みたいなことが多々発生してイラつく、良くない書き方でしょうが、要素をちゃんと切り張りして合成し、「あたかも初めからそのように考えていたように」書くというのが、未だに正直な感じがしないんです。しかし、この書き方にこだわることで、ひょっとしたら「私は頭が悪いので頑張ってもこのような貧弱な考えしかできませんでした」と自分を貶めつつ(甘ったれともいう)、「でも普通こう考えるよね!?私おかしくないよね!?」と悪あがきをしているのかもしれません。少なくとも、文章から自信は感じられないでしょう。しかし、この記事も私が考えたことをなるべく時系列順に書いていくつもりです。

とりあえず前の記事でも最後に書いたように、私がコンプレックスになりやすいというところから話を始めてみようと思います。まず名目上は対等であるとされる人間関係での話について書くのが単純でいいのかな。

私は何らかの、およそ人数が10人以内の集団に所属した場合、かなり高い確率で誰かに対する劣等感と恐怖が生じます。高校時代にこれに悩まされたとき、この対象になる人間にありがちな特徴で、私にない能力を考えてみると、

・基本的に場を強権的に支配している。人の話を遮って自分で話すことができる。

・ほとんど瞬時に適切な返し、または適切な罵倒が思いつく。

というのがすぐに思いつきました(もっとも、それ以外にもコンプレックスの要因はあるのですが、そのようにして生じたコンプレックスの対象とは「ちゃんとした人間関係」を一切築かない(本来、もしかしたら自分の成長とやらのためにはその必要があるのかもしれないが)ので、ここでは問題として取り扱いません)。

私は、話したいことがあっても人の話を遮って話すことはできません。事前に話したいことがあるときには、まず話したいことが話せそうな文脈になることが十分に期待できる会話にこっそりと参加する体になり、それから文脈が来るのを待ちます。半分くらいの場合、期待された文脈になりません。期待された文脈が幸運にも訪れたときは、話すタイミングを伺っているうちに文脈がどんどん離れて、発言するときには文脈が崩壊するか、あるいは結局そもそも発言できません。そして、その場で言いたいことが思いついた時にも話せるタイミングが来ないことがあります。

そして、何か賛同しかねる発言に対する適切な返しなんかは私の場合思いつくのに少なくとも数時間がかかります。これではどんなにうまい返しでも実用レベルで全く使えません。それで、理不尽な発言に面したとき、何も言い返せません。その時、私自身はその悔しさだけが残り、しばらくそのことについて考え続けます。

もっとも、私は少しの発言に傷つきやすい人間です。面倒です。いかなる疎外的な発言、差別的な発言、波風を立てる発言に対しても動揺します。ズタズタになっても私のことは気にしないでください。

私は返しを考えるとき、「理不尽だ!!!!」という感情になっていることもあって、理想的な返しの目標として、「論理の破綻を指摘する」こと、ひいては「小さな論理の破綻よりも、本質的な誤りを見つけ出して指摘すること」を掲げていました。尤も、自分の意見がないからそのような返ししかできないということはすでに自覚していたようです。

これが達せられるのに、それぞれ少なくとも1時間はかかります。これが瞬時にできる人間というのが世の中にいるんですよね、何食べたらそういうことができるようになるんでしょうか。パターンの認識だけでそれができるようになるのであれば、私でもできているはずです。むろんコンプレックスの対象には、こうした能力を備えているものもいます。

こうして、そのような思索の繰り返しの結果、例えば「会話の内容ではなく、「議論をしようとしないお前の態度が気に入らない」というのが正解だ!」とか思いつくんですが、同じような場面に出くわしたときにこの返しができたことがありません。忘れているというより、単に言い返す勇気がないし、言い返せたところで次に何が返ってくるのか分からないので、以降は「嘘避け」を続けることを強いられるのが見えているのでビビってしまうようです。情けない。これでは考えた意味がないんですが。

ところが、仮にそのような返しができたところで意味のない場合もあることに気づいたことが浪人時代にありました。返しをしても無視されて、何も影響が与えられないのです。さらに質が悪いのは、この浪人時代の問題は、父親相手だったので、有効な反応を得たところで親の特権を行使されてもっと理不尽な目に遭うのがお決まりのパターンというところです。今のところこれに対する解決策は見当たりません。何?18歳(当時)になってまで父親の特権が有効であるのは私の問題ですか?そうなんだろうなぁ…

親という権力装置の問題は置いておいて、世の中には「言葉が通じない人」つまり何を言っても意味がない人がいること、しかもおそらく世の中の大多数はそうなっていることに気が付きました。そして、社会ではそういった存在に配慮して生きていかなければならないということを察するわけです。いや、これかなり立場の限定されたお気持ちなので、これが共感できる人以外読まないでください。いや、興味あったら読み進めても…

そして、大学で新しいコミュニティに入ると、ゲーマーらしい理不尽、身勝手な放言が横行していました。

本来息をするように理不尽、身勝手な放言をするのはよいことではないのですが、私はこれすら自分にはない能力のように思えました。私はその能力が欠けているせいで日々もやもやと生活しているところがあります。そして、暴力的にふるまえる時、または雰囲気が来たら過剰に罵倒し、破壊活動を行います。これは脅しとかイキりではなく、手加減が全くできないことを示しています。最近は理不尽な発言を試みているのですが、手加減を知らないために引かれます。

そもそも合理的にしか発言できないことが重い足枷だったのです。論理的な議論というのは緊張感溢れる差し合いです。本来は、論理的議論は建設的なことをするときに必要で、建設的な議論は緊張感あふれる差し合いにはならないはずなのですが、日本においては、議論は勝つか負けるか、論破するかされるかの戦いです。ちょっとした隙で負けます。カジュアルな会話でそんなことしたい人はとても少ないです。それよりはルール無用の殴り合いの方がほとんどの人にとってはやりやすいでしょう。しかし、私は自分の意見も何も、言うことがないので、ルール無用の戦いができません。論理的な隙を見つけて差し込もうにも、そもそもが理不尽なので、論理的に差し込むことが原理的にナンセンスになってしまい、できません。会話の前提以前のところで詰んでいる気がします。

 

結局、攻撃性とか自分の意見がなければ、論理を内面化することは足枷でしかありません。それか、理不尽な目にあったときに慰めにはなるのでしょうが。本来論理とは殴り合いのための、一つの道具でしかないのです。

 

そもそも私が会話でしたいのは少なくとも殴り合いじゃないです。論理的な差し合いをする余地があれば、まだ私にも考え方が分かるというだけで、本来私が会話に望むのは共感とか前進です。

 

まあ最終的にこの文章をまとめると「私は社会で喋る能力が欠落している」で終わりなんですけどね。私のコミュニケーション能力の欠落を示す要素は他にもあるし、書き足りないところもあるのですが、ここ最近の情勢で、友人と対面で会話する機会が無になってしまったので、書くべき内容を忘れてしまいました。思い出したときに追加で書くかもしれません。

それに、同じ問題意識に関して、誰とは言わんがすでに私の5000兆倍簡潔に記述している人を観測しているので、私のこの長時間におよぶ思考のアウトプットは無に帰せられます。まあ、ただ、私の力でここまで考えて、結果何も成長できていない、というところまで書いて終わりでいいと思います。